2005年05月27日
純粋すぎて痛い愛のかたち◆『サマリア』
以前にも書いたことがあるが、私は巷の"韓流ブーム"に関しては、ささやかな疑問を抱いていて、韓国のイケメン俳優たちが来日する度に空港に集まって大騒ぎしている人たちをテレビで見ると、正直に言ってうんざりする。先日、名古屋でも『韓流シネマフェスティバル』が行われていて、私は時間が無くて1本も観ることが出来なかったのだが、それで何本か観た友人の話を聞いたところ、やはりイケメン俳優たちの映画には、おばちゃんたちが殺到していたらしい。どうせ行けなかったが、行かなくて良かったと思った。しかし、同じ韓国映画であるはずなのに、この『サマリア』には騒がしい"韓流ブーム"とはかけ離れた静けさがあった。名古屋での公開最終日、キャパシティ50席の劇場は約50%の入り。その80%は男性で、ミーハーなおばちゃんの姿は皆無だった。
初めてこの映画の予告編を観た時、私はドキっとした。「この痛みを抱いて生きる」このキャッチフレーズが、直球で私の心に突き刺さったのだ。
1月29日の日記に、私はこう書いた。「他の誰にも分からないこの胸の痛みは、一生消えることなく私の中に残って行くのだろう」そして、敢えて書くことはしなかったけれど、心の中ではこう続いていた。「私はこの痛みを抱いて生きて行く」
この映画の少女の気持ちと、私の気持ちはリンクするのだろうか。
少女チェヨンとヨジンは親友同士。チェヨンはヨジンと二人でヨーロッパ旅行に行くため、援助交際で身体を売っていた。そんなチェヨンと寝る男たちを、ヨジンは激しく軽蔑していた。ヨジンはチェヨンに密かな恋心を抱いていたのだ。しかし、チェヨンは彼女のそんな想いにも気付かず、奔放に援助交際を繰り返していた。ある日、チェヨンが男とホテルに入ったところを、取り締まりの警察官に踏み込まれてしまう。慌てたチェヨンは、ヨジンの目の前でホテルの窓から飛び降り、病院に運び込まれるが死んでしまう。親友を目の前で失い、ひどく傷ついたヨジンは、ある決意をする。それは、チェヨンと寝た男たちを呼び出し、セックスをしては彼らにお金を返すということだった。ところが警察官であるチェヨンの父親が、娘がホテルで男と居るところを目撃してしまった。
(以下、ネタばれを含みます)
痛い。痛すぎる映画だ。 3部構成からなるこの作品には、3人の登場人物の3つの"痛い愛"が表現されている。
「自分の身体を売って、ヨジンと旅行に行くお金を作る」というチェヨン。
「チェヨンの罪を償うために、男と寝てお金を返す」というヨジン。
「娘は責めず、娘と寝た男たちに制裁を加え続ける」というヨジンの父親。
それらはみな、社会的なモラルからは逸脱しているものの、相手への愛のために自分を犠牲にすることを厭わない。
旅行のために援助交際で身体を売るというチェヨンの行為は理解し難いものがあるが、チェヨンと寝た男たちと寝て、お金を返そうとするヨジンの行為は理解出来る。彼女は「チェヨンの罪を償うため」と言っているが、実はチェヨンが死んだことに責任を感じていて、自分に痛みを加えることで自分自身を救おうとしているのだ。目の前で親友があんな形で死んだのだ。残された自分に出来ることは、後を追って死ぬことか、自分を傷つけることしか出来ない。私がヨジンの立場なら、もしかしたら同じことをしたかもしれない。この気持ちは、大切な人を失った者にしか分からないだろう。
一方、娘が援助交際(実は違うが)をしていると知ったヨジン父親は、娘にはそのこのことを一切責めずに、相手の男たちを痛めつける。それも、常識的な観点から言うとズレているような気がするのだが、彼がそうしたことには、次の4つの理由が考えられる。
1. 親友を失って傷ついている娘に気を使っている。
2. 母親が居ないので、父親として娘にどう対処したらいいのか分からない。
3. 「ウチの娘は悪くない。悪いのは相手の男だ」という、過保護的な考え。
4. 単純に、警察官としての正義感。
4を単独の理由として考えることは難しいが、それ以外の理由が複雑に絡み合った結果、あのような行為に出てしまったのではないだろうか。そして、その行為もまた、悲しい結末を招く。
「これからはひとりで運転しなさい」そう言って、父親はクルマとヨジンを置いて、ひとりで去って行く。ぬかるみにハマりながら、必死に父親を追いかけるヨジン。きっとあのあと、ヨジンはなぜ父親が捕まったのかを知るのだろう。そして、父親の自分への愛と、自分の罪に気付くのだろう。痛い愛が生んだ悲しい結末だったが、その先にあるものを垣間見ることが出来るラストシーン。忘れられない映画になりそうだ。
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この記事へのコメント
「純粋」であるが故に、痛々しく、美しく、理解不能。
ヨジンとその父親の、「純粋」の背後に「孤独」を感じました。
クラシックの楽章を思わせるストーリーの分け方も素敵な作品です。
登場人物たちの行動や心理はかなり不可解なものの、
彼らの「思いの強さ」、これをしっかりと受け止めたい作品ですね。
かの車をよろよろと運転するラストシーンも格別なものでした。
私はむしろ、旅行のために身体を売る感覚にリアリティを感じて
そこからグイグイひかれていきました。
特別な想いがないからこそ、
簡単に寝ることができるのだと。
そして、その想いのなさこそがドラマだと思いました。
警察に踏み込まれたチェヨンが慌てて窓から飛び降りた・・・と書いてますが、まあ文章での説明のためそう書いたのかもしれませんが、私には「慌てていた」ようには感じませんでした。
彼女はいつもの微笑をヨジンに投げかけ、飛び降りた。ヨジンがいるから死ぬ筈ないと、根拠はないんだけど信頼しきっていたのか?あるいは死ぬことも援助交際と同じくらい軽く考えていたのか?切羽詰まった状況にあってもなお、お姉さんであり続けたかったのか?
いずれにせよ、彼女の死で、ヨジンの心は迷走していく。全体の1/3しか出番のない彼女が、映画全体を支配していたように感じました。
ズシンと心に重く残る作品でした。
もっと早く観に行って、もう一度観たかったです。
最終日に観に行ったことが悔やまれてなりません。
DVD化を心待ちにしています。
ラストシーンは近年に観たことがないほど印象的なものでした。
ラストが印象的な映画は、ずっと心の中に残ります。
この映画は切なくて悲しいのに、大好きな1本になりそうです。
なるほど…。
人それぞれにツボは違うのですよね。
きっと娘を持った父親なら、娘と寝た相手の男を殺してやりたいと思う気持ちが分かるでしょうし。
私は最初から最後まで、ヨジンの気持ちにハマりっぱなしでした。
確かに。
私には旅行ために援助交際したり、豚足で頭をかいたり、
飛び降りる時も死ぬ間際も微笑んでいたり、
ヨジンの行動が1番「謎」だったので、もしかしたら
私の解釈は間違っているのかもしれませんね。
「謎」の人物だっただけに、その印象も強烈で、
しんさまのおっしゃる通り、彼女が映画全体を支配していたように思います。
本当を言うと一番わかりにくいキャラクターなのがチェヨンだと思う。チェヨンは一般倫理が届かないところで、刹那の愛を相手に与えます。本当は、お金などはどうでもよかった。
ここでは、本当に「聖なる娼婦」性がどこかで、成立したかのような、錯覚にとらわれる。
こんにちは。
チョエンは不思議な子でしたよね。
>本当は、お金などはどうでもよかった。
私もそう思います。お金(旅行)のためというのは口実で、彼女はそうすることで、ある種の精神的な満足感を得ていたのではないでしょうか。
女子高生2人の心情の動きは読み取れるのですが、父親だけが理解不能でした。
あの年頃の少女なら性への意識は高いですし、その一線を越えるのはとても大変な事だと思っていたのに、日常生活の中であっけなく乗り越えられてしまった。
その行為によって聖母になれる筈もなく、チョエンの辿った道を後戻りする事は自分自身が後戻り出来ない道に進む事だったんですよね。
幼すぎる考えが大切なものを手のひらからすべてこぼしてしまう。
そんなような作品でした。
こんにちは。
私も父親の気持ちははっきり分かりませんでしたが、娘に車の運転を教えて去っていく姿が目に焼きついています。
この作品は2005年の私が観た映画の外国映画のベスト3に入りました。
チェヨンの罪を償う・・・。
私は、ヨジンがチェヨンへの罪を償うと思い込んでいました。
もう録画データを消してしまったので、確認できないのですが。
チェヨンの罪を償うのだとすると、私には、ヨジンの気持ちはますます理解不能です。
ヨジンが見張りの役目を果たせず、警官に乗り込まれ、チェヨンを死なせてしまった罪の償いと解釈していました。







