映画鑑賞備忘録(2006年05月)
2006年06月04日
もうひとつの「いじわるな神様がくれたもの」◆『タイヨウのうた』
5月30日(火)試写会・プレシネ60にて太陽の光に当たることが出来ないXP(色素性乾皮症)という病気を抱えた16歳の少女・雨音薫(YUI)は、学校にも行けず、昼と夜が逆転した孤独な生活を送っていた。そんな薫の生きがいは、歌を歌うことだった。誰も居ない深夜の駅前で、彼女は毎日のようにギターを弾きながら歌い続けた。そしてもうひとつ。早朝の部屋の窓から、サーフィンに向かう孝治(塚本高史)の姿を眺めることも薫の密かな楽しみだった。彼女は話をしたこともない彼に恋をしていた。太陽の光の下では決して出会うことがないふたりだったが、やがて運命は彼らを引き合わせる。
最近、私が気に入っていて、よく聴いているアーティストYUIが、映画に主演した。実年齢19歳の彼女が、作品の中では16歳の少女を演じている。いつもビデオクリップで見ている彼女は、19歳より大人びているように感じていたが、映画の中で雨音薫を演じる彼女は、ビデオクリップの中とは全然違う、あどけない16歳の少女だった。ビデオクリップを見ている時には分からなかったが、この作品を観て彼女がとても小柄な女のコだったことを知り、私の中のYUIのイメージは大きく変わった。
小さな薫の姿には、XPという病気を抱える切なさと、今にも消えてしまいそうなはかなさがあった。しかし、それとは逆に、歌っている時の薫には、意志の強さと生きている力を感じた。YUIのセリフ回しには拙さがあるが、それを相手役の塚本高史や、父親役の岸谷五朗の演技力がしっかりカバーしているし、セリフがない部分で心の揺れを見せる作品なので、さほど気にならない。それに、何と言ってもYUIの歌が力強く心の奥まで響いてきて、セリフの拙さを忘れさせてくれる。YUIのファンなので、どうしても贔屓目に見てしまう部分はあるかもしれないが、YUIの歌がなければこの作品は成り立たないのではないだろうかと思わせるくらい、彼女は薫役にハマっていた。
もうひとつ、この作品で素晴らしいと思ったのは、孝治と薫の恋の始まりの表現だ。16歳の少女が名前も知らない男子高校生に恋をし、心をときめかせる。やがて彼も彼女の存在を知り、そして彼女の歌を聞いて心を惹かれる。お互いがお互いに恋をした瞬間が手に取るように分かる、とても純粋で自然な描写だった。観る前は塚本高史が高校生役と聞いて、ちょっと無理があるんじゃないかと思っていたが、観てみれば全く違和感はなく、さりげない演技に彼の上手さを知ることが出来た。
ネタばれになるので詳しくは書かないが、不治の病を抱えながら歌い続けることに生きる意味を見出していた薫と、それを支える孝治の姿は、私の中でGUYと自分の姿に静かに重なった。この作品が表現しようとしていることが、あまりにも自分が体験してきた出来事に似ていて、驚いたほどだった。ただ、十代のふたりの純粋さを美しく表現したこのフィクションに私の物語が敵うはずもなく、ラストシーンでは涙が止まらなかった。私が自分の物語の中で上手く表現出来なかったラストシーンを、この作品はきっちりと表現してくれている。観ていて、自分が癒された気持ちになった。
監督の小泉徳宏は、この作品が長編デビューとなる25歳だという。繊細で心に沁みる画を撮る人で、今後の日本映画を担う若手映画監督として、この名前は覚えておいた方がいいかもしれない。次回作も楽しみだ。
数奇な女性の生涯をポップに表現◆『嫌われ松子の一生』
5月27日(土)TOHOシネマズ木曽川にてある日、荒川の河川敷で女性の他殺死体が見つかった。被害者は川尻松子(中谷美紀)53歳。今まで自分に伯母が居たことを知らなかった甥の笙(瑛太)は、父親(香川照之)に頼まれて、一人暮らしだった松子のアパートの後片付けをすることになる。部屋に残された品々を整理しながら、笙は松子の数奇な人生を知り、彼女の魅力に気付いていく。
愛されようと必死に頑張る松子は、見ていると自然に彼女の応援モードに入ってしまうような愛すべきキャラクターだった。しかし、23歳で中学教師をクビになってから、ソープ嬢になったり、ヒモを殺して刑務所に入ったり、ヤクザの女になったり…と、絵に描いたような転落人生を送ることになる松子。劇中で、BONNIE PINKが「愛はバブル、愛はトラブル」と歌っているが、不器用ながら一生懸命に幸せを掴もうとしているのに、せっかく掴んだ幸せな瞬間は、いつも泡のようにはじけてどこかに飛んで行ってしまう。幸せが消える瞬間に、誰に問いかけるでもなく「何で?」とつぶやく松子が、何だか切なかった。
私自身も、かなり数奇な人生を歩んできたと思う。幸せな時もあったが、いつもそれは長く続かず、松子のように「何で?」と何度もつぶやいた。でも、松子のような人生を送る人がこの世には本当に居るのだとすれば、私なんてまだまだ幸せな方かもしれないな、とも思う。様々な体験を通して、松子は40歳から引きこもり生活に入る。愛想も節度もなく、同じアパートの住人からは「嫌われ松子」と呼ばれていた。そして、53歳で他殺死体で発見される…という、なんともやるせない生涯を送ることになるのだ。
人生の中では、様々な人との出会いがあり、別れがある。映画の中では、松子の人生に絡む男性たちを、谷原章介、宮藤官九郎、劇団ひとり、武田真治、荒川良々、伊勢谷友介というバラエティに富んだ面々が演じている。彼らはみんな、寂しい松子の心の中にスッと入り込んで彼女を夢中にさせる。松子はいつも恋愛に一生懸命なのに、色んな形で別れが訪れる。次々にスクリーンに現れては、あっと言う間に消えていく男性たちを見ていると、正に一人の女性の恋愛遍歴の縮図を見ているようで、妙なリアリティがあった。
「人間の価値って、人に何をしてもらったかではなく、人に何をしてあげたかってこと」
この作品の中で一番印象に残った言葉だった。確かにそうかもしれないし、いい言葉だと思う。でも、松子は決して幸せな一生を送ったとは言えない。松子はいい人過ぎたのかもしれない。いい人過ぎると幸せになれないのだろうか。亡くなってから、その価値に気付いてもらえるなんて悲しすぎる。
話だけ追っていくと、とても暗い話だ。原作本は読んだことがないが、おそらくとんでもなく暗い話なのだろうと想像出来る。そんな暗い松子の一生を、『下妻物語』の中島哲也監督がポップな映像と音楽で、ミュージカル仕立てで表現している。暗いはずの松子の一生に暗さはみじんも感じさせない、何とも斬新な映画だった。
2006年05月27日
「ゆとり」を持つことの大切さ◆『かもめ食堂』
5月26日(金)名演小劇場にて毎朝、目覚まし時計に起こされて無理矢理にベッドから起き上がり、満員電車に乗り、会社で単調な仕事を続ける。体調も良くなく、ストレスは最高潮に達していて、好きな映画を観に行く気力もない。定時後はまっすぐに家に帰って、夜はくだらないテレビのバラエティ番組をなんとなく観ながら過ごす。そうやって、ただ、会社と家を往復しているだけの毎日にうんざりしながら、「これでいいのだろうか」とふと考えてしまう。そんな中で『かもめ食堂』を観た。
"ムーミンの国"フィンランドのヘルシンキで和食の店「かもめ食堂」を開いた日本人女性、サチエ(小林聡美)。彼女の思いは、地元の人たちに和食を食べてもらうこと。しかし、店を開いて1ヵ月経っても、客は一人も来なかった。それでも、サチエはマジメにやっていれば、いつかはお客さんがやってくると信じ、毎日ピカピカに食器を磨きながら、店を開いて待っていた。そんなある日、店に初めてのお客さんがやって来た。サチエはその日本かぶれの青年トンミに、「あなたは一人目のお客様だから、コーヒー代はいらない」と言う。それから毎日のようにタダのコーヒーを飲みに店にやって来るトンミ。サチエはそんな彼を毎日暖かく迎えてもてなす。
ヘルシンキの町の中で、ゆったりと流れる時間に溶け込み、ゆったりと暮らしているサトミ。彼女にとっても、やはり毎日が同じことの繰り返しであるはずなのに、私の生活とは全く違う。彼女には、繰り返す毎日の時間の中にも、心の中にも「ゆとり」があるのだ。かもめ食堂を満席にしたいという夢を持ちながらも、1ヵ月間客が来ないことに決して焦ったりはしていない。そして、トンミに振舞うコーヒーに象徴されるものは、サトミが利益よりも大切に考えている、人々との触れ合いだった。彼女のこの余裕は、いったいどこから来ているのだろう。
この物語には、ミドリ(片桐はいり)とマサコ(もたいまさこ)という、あと二人の日本人女性が登場する。二人とも、ひとりでふらりとフィンランドにやってきて、いつ帰るとも決めておらず、偶然に知り合ったサチエの「かもめ食堂」を手伝いながら毎日を過ごす。これもまた、人生の中で贅沢な時間の使い方だと思った。スケジュールを決めず、現地でのゆったりとした生活に身をゆだねて過ごす日々。私も出来ることならそんな旅がしてみたい。
物語の中では、40歳を過ぎたであろうこの三人の女性たちの、フィンランドに来る前の日本での暮らしは深く語られていない。でも、やはり今の私のように、日本での生活に何らかのストレスを感じ、スローライフを求めてフィンランドにやってきたのだろうということは、およその想像がつく。スローライフを楽しむ彼女たちの姿には「何か」を振り切った潔さが感じられた。私には振り切る勇気がない。彼女たちの潔さとフィンランドが生み出した「ゆとり」の生活が、心から羨ましいと感じられた作品だった。













